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9件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号

御存じないですか……それではその問題はそれといたしまして、宮地証人松原証人池田証人三名から、この終戰以来多くの抑留者方々が今日までの間にいわゆる反動分子と言われる人が帰還を遷延せしめられた、いわゆる反ファシスト委員会によつた遷延させられたということをば知つておられる。認められる、この点について先ず宮地証人

岡元義人

1950-04-08 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第22号

石田(一)委員 そういたしますと、民主化運動とかいわゆる反ファシスト委員会というものは、将校あるいは下士官等の入ソ当時の一つの暴力的な行為とか罪悪とかというものに対する部下の反感が高じて反軍岡争なつた。言いかえればそれが結局は反ファシスト委員会の大きな根強いものとなつておる。こう理解してもかまいませんか。

石田一松

1950-04-08 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第22号

矢浪証人 これは私は地方ファシスト委員会のビューローのメンバーでありまして、直接収容所におりません。従つてこれは地区、特に分所の反ファシスト委員会でなければ具体的にわかりませんが、私の聞いておりますところを申し上げますと、実際はどういうふうにやつたかというと、もちろんこの帰還名簿の作成やそれらの決定は、これはソビエト同盟当局でされることであります。

矢浪久雄

1950-04-08 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第22号

矢浪証人 反ファシスト委員会というのは一九四九年の三月ごろから各分所でできまして、それがだんだんと分所から地区の反ファシスト委員会ができて、下からずつと積み上げられ、そうして遂にハバロフスク地方の反ファシスト委員会というものができたわけです。それでその年の五月の全地方の反ファシスト委員会選挙の結果、推薦されて反ファシスト委員会のプューローの一人となつております。

矢浪久雄

1950-03-31 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第15号

安部委員 先ほど同僚塚原君並びに西村君の質問に対してあなたのお答えになつたところをよく考えまする場合において、日本共産党と、ソ連におつたアンチ・ファシスト委員会というのと、何らか連絡があつたように思はれるのですが、その連絡がひいては引揚げの障害になつたというようなことがありましたか。

安部俊吾

1949-12-24 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号

自分は入ソ当時昭和二十年から昭和二十三年の六月まで、友の会並びに民主グループ並びに反ファシスト委員会議長、並びに民主グループ指導部に就いておりました。そうして昭和二十三年の六月コムソモリスクにおける民主運動代表者会議において当時の指導者相川春喜、この人と官僚主義という問題について衝突し、迫害され、同年の六月にテルマ会議において反動として除名されました。

一ノ瀬喜三郎

1949-03-25 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

ナホトカに來て反ファシスト委員会医療部の六十名の委員長選挙され、そこまでは民主グループに入つておりません。そうしてナホトカに着くまでに私達の收容所でやはり千名帰ることになりました。そうしてその中の將校が約百名來ることになつておりました。ところが今までは進歩的の人は殆んど帰りまして、残つている將校の人は曾つて非常に入所の当時兵隊を苦しめておる人達が多かつた。その部下がなかなか言うことを聞かない。

本島正雄

1949-03-25 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

その後の反ファシスト委員会勿論これはナホトカ全收容所の反ファシスト委員会ではありません。あの中に医療部というものがありまして、これは若干の入院施設を持つております。その医療部ファシスト委員長が帰つたので、私は選出されて委員長になつたのであります。勿論民主グループに属しておりません。それから帰つて暴行を受けたのでありまして、誰から受けたかと言いますと、名前は分りません。

本島正雄

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