1950-04-30 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第29号
「菅証人によりますと、帰国の時期が適当でないと認める者の内申の権限を、民主グループ時代は専門部員、反ファシスト委員会時代は中央委員会に、ソ連当局から与えられて居たのでありあす。
「菅証人によりますと、帰国の時期が適当でないと認める者の内申の権限を、民主グループ時代は専門部員、反ファシスト委員会時代は中央委員会に、ソ連当局から与えられて居たのでありあす。
ウオロシロフ地区は、昭和二十三年五月ごろには、すでにシべリア民主運動として反ファシスト委員会が結成されていたのでありまして、いわゆる反動分子はほとんどなくなつていた状態であつたのであります。
反動分子が帰還を遷延せられたことに対して、反ファシスト委員会にその取捨選択の権限があつたかどうか、いわゆるソ連側の命令、その点御証言願いたい。
御存じないですか……それではその問題はそれといたしまして、宮地証人、松原証人、池田証人三名から、この終戰以来多くの抑留者の方々が今日までの間にいわゆる反動分子と言われる人が帰還を遷延せしめられた、いわゆる反ファシスト委員会によつた遷延させられたということをば知つておられる。認められる、この点について先ず宮地証人。
○証人(宮地亮一君) 自分達が一九四七年二月一日に反ファシスト委員会の選挙を行なつた際において、ソ側から提出された委員会の権限の中には、帰国順位の決定に関する意見具申の権限を與えられておりました。このように自分は記憶しております。
○石田(一)委員 そういたしますと、あなたが最初にいらした收容所のいわゆる幹部見習というか、勉強中の方々はほとんど全部いわゆる民主化運動、あるいは反ファシスト委員会というものの運動にお入りになりましたか、それとも一部ですか。
○石田(一)委員 そういたしますと、民主化運動とかいわゆる反ファシスト委員会というものは、将校あるいは下士官等の入ソ当時の一つの暴力的な行為とか罪悪とかというものに対する部下の反感が高じて反軍岡争となつた。言いかえればそれが結局は反ファシスト委員会の大きな根強いものとなつておる。こう理解してもかまいませんか。
○矢浪証人 これは私は地方反ファシスト委員会のビューローのメンバーでありまして、直接収容所におりません。従つてこれは地区、特に分所の反ファシスト委員会でなければ具体的にわかりませんが、私の聞いておりますところを申し上げますと、実際はどういうふうにやつたかというと、もちろんこの帰還名簿の作成やそれらの決定は、これはソビエト同盟の当局でされることであります。
○矢浪証人 反ファシスト委員会というのは一九四九年の三月ごろから各分所でできまして、それがだんだんと分所から地区の反ファシスト委員会ができて、下からずつと積み上げられ、そうして遂にハバロフスク地方の反ファシスト委員会というものができたわけです。それでその年の五月の全地方の反ファシスト委員会で選挙の結果、推薦されて反ファシスト委員会のプューローの一人となつております。
民主グループから、さらに反ファシスト委員会というものが持たれたということですが、それはどうですか。
○安部委員 先ほど同僚塚原君並びに西村君の質問に対してあなたのお答えになつたところをよく考えまする場合において、日本共産党と、ソ連におつたアンチ・ファシスト委員会というのと、何らか連絡があつたように思はれるのですが、その連絡がひいては引揚げの障害になつたというようなことがありましたか。
○吉田証人 いわゆる日本新聞を通じての反動闘争、あるいはアンチ・ファシスト委員会の帰国反対運動については、彼らは常に、われわれの民主運動は日本共産党と直結しているのだということを言つておるのであります。
○吉田証人 それは各地区、各分所によつてかわりますが、大体友のへ会から民主グループ、それから四八年の三月ごろから反ファシスト委員会に名前がかえられております。
但し昭和二十三年五月の反ファシスト委員会第二回選挙の以前において、当時コムリモリスク会議以後前職者の問題が非常にやかましくなりました。これ以前は前職者であろうとなかろうと、講習会に参加し、指導部にも付いておりました。
自分は入ソ当時昭和二十年から昭和二十三年の六月まで、友の会並びに民主グループ並びに反ファシスト委員会の議長、並びに民主グループの指導部に就いておりました。そうして昭和二十三年の六月コムソモリスクにおける民主運動代表者会議において当時の指導者相川春喜、この人と官僚主義という問題について衝突し、迫害され、同年の六月にテルマ会議において反動として除名されました。
やはり民主グループになつてから民主グループの委員長で、反ファシスト委員会になつてからは反ファシスト委員会の議長を一回、二回と務めております。昭和二十三年の六月に極反動として除名されましたが、それ以後は関係しておりません。
ナホトカに來て反ファシスト委員会の医療部の六十名の委員長に選挙され、そこまでは民主グループに入つておりません。そうしてナホトカに着くまでに私達の收容所でやはり千名帰ることになりました。そうしてその中の將校が約百名來ることになつておりました。ところが今までは進歩的の人は殆んど帰りまして、残つている將校の人は曾つて非常に入所の当時兵隊を苦しめておる人達が多かつた。その部下がなかなか言うことを聞かない。
その後の反ファシスト委員会、勿論これはナホトカの全收容所の反ファシスト委員会ではありません。あの中に医療部というものがありまして、これは若干の入院施設を持つております。その医療部のファシストの委員長が帰つたので、私は選出されて委員長になつたのであります。勿論民主グループに属しておりません。それから帰つて暴行を受けたのでありまして、誰から受けたかと言いますと、名前は分りません。